
1993年9月4日。大記録まであとアウト3つ。ヤンキースタジアムがブーイングの嵐で包まれた。2年連続盗塁王のロフトンがバントを試みたのだ。が、失敗してファ
ウル。
「両親は僕のことをハンディキャップをもった子としてではなく、なんでもできる子として育ててくれたんだ。」
マウンド上のジム・アボットは少しも動じなかった。フィールドワークには自信がある。9人連続バントできたときも、難なく仕留めたものだ。右きき用のグラブを右手首の
上にかぶせ胸に抱え込むようにして、ワインドアップから足を高くあげ、豪快に投げ込む。その直後にグラブを左手にはめ、捕球の体制をとる。ゴロのときはグラブをボール
ごとはずし、左手でボールを取り出して素早く送球した。
「両親は僕によくこう言った。”ジム、まずは自分を信じることが大切よ。挑戦しなさ
い、一度であきらめてはだめだ”って。」
1967年9月19日。ミシガン州のフリント高校を卒業してまもない18歳のカップルは、産声をあげた長男の右手がないことを知る。父は肉をパックする工場で働き
ながら、夜学でミシガン大学へ通う。母は2人の息子を育てながら勉強をつづけ、両親共に大学院まで進んで弁護士の資格を得た。アボットは野球、アメフト、バスケットボ
ールに打ち込む一方で、勉強もできて、とくに苦手科目がなかった。くすっと笑いながら、と述懐した。
「実はプロ入りして騒がれるまで、僕は自分のことをほとんど障害者だと意識したことがなかったんだよ」
昔から右腕を隠そうとはせず、取材には気さくに応じる。高校を卒業する年のドラフトでブルージェイズに指名されたものの、アボットは両親と同じミシガン
大学を選んだ。
「大学で自分の可能性をもっと試してみたかった。それに両親を見ていて、教育の大切さを知っていたからね」
1988年の夏。ソウル五輪の決勝戦でアボットは野茂英雄らと投げ合い、母国の勝利に貢献した。契約金20万ドルでエンゼルスに入団して春季キャンプに合流すると、
マイナーリーグを飛び越えて、先発ローテーション入り。 5月に完封・完投で初勝利をあげ、12勝というルーキーばなれしたスタートを切った。
ヤンキースに移籍した1993年のシーズン。5月にホワイトソックス戦であわやノーヒットノーランという好投をみせたが、ボー・ジャクソンに1安打を許してしまう。
9月4日は朝まで雨がふっていて、グラウンドが柔らかかった。試合開始早々、先頭のロフトンを四球を与えてしまい、ベル、ラミレス、アロマーらが並んだインディアンス
強力打線を相手に、なかなかコントロールが安定しなかった。 味方のファインプレーに助けられながら、次第にアボットは本来の調子を取り戻していく。ムチのようにしなるボディからの直球は切れ味が鋭い。多彩な変化球で打者を追い込み
、内野ゴロの山を築いていった。最後の一投は119球目。バイエガを遊撃ゴロに仕留めると、アボットはあの日と同じように両腕をあげて、にっこり白い歯をみせた。最初
のノーヒットノーランは11歳のとき。メジャーでは初、人生で5度目の快挙であった。
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