2018年2月FRIDAY「スポーツは人間ドラマだ!」に寄稿したものの、再録です。
「ミキアンドーが私の目の前で4回転を何度も降りたのよ」
米解説者のペギー・フレミングは、早朝練習から目が釘付けとなり、興奮で声を震わせていた。この往年の氷姫が魅了されたのはジャンプだけではなく、
「五輪のときとは違う。巨大な炎とパワーが彼女のスケーティングに注ぎ込まれている」
前年のトリノ五輪で安藤美姫は総合15位。練習拠点を米クリーブランドに移したものの、米国のコーチの指導とエッジの矯正でジャンプを崩し、シーズンとおして不調がつづいた。眼前で荒川静香が金メダルを勝ち取り、
「私もしーちゃんと同じ色のメダルがほしい」
と現役続行を決断。荒川と同じニコライ・モロゾフの門下生となった。が、それは同時に新たな試練や困難を意味していた。モロゾフは個性や人生観を根本から、えぐるようにして振付に盛り込み、豊かな愛情表現を決して隠そうとはしない。人前でハグしたりキスしたりは日常だし、一転してエキセントリックに叱る。
とはいえ、情熱の炎と冷酷な氷をあわせもつ指導者との出会いが、安藤の精神を迷いから開放させた。寂しがりやで内気だった少女が孵化し、官能的なアーチストとして羽ばたきはじめたのだ。モロゾフはアイスダンス出身なので、躊躇することなく、ジャンプを名古屋の門奈裕子コーチにまかせたのも正解だった。
安藤が8歳のとき、門奈は2人を一組にして教えていた。一人が飛べなければ、もう一人も次に進めないから、必死で練習する。安藤が組む相手はたいてい二歳年下の浅田真央だった。
まだスケートが人気スポーツでもなんでもなかった時代、込み合うリンクの片隅で、世界最高難度の技をものにしていった少女たち。にかかわらず、愛知万博の冷凍マンモスでホームリンクが閉鎖され、途方にくれ、共に泣いたり、笑ったりしながら練習場所を求めた日々。
時はめぐり流れ、その浅田が1位につけている。安藤はフリーの最終滑走だ。
4回転は回避し、スパイラルがわずかに揺れた。
しかし、ためらいはない。
スピードは増し、ダイナミックな3回転のコンボを次々と決めていく。
見せ場のステップシークエンスに入る前、ふっと微笑みすら浮かべた。
総合得点が浅田を 上回った。その瞬間、1位も2位も幼児に戻って泣き崩れ、その
後はいつもどおり。笑顔で互いの健闘をたたえあった。
彼女たちにとって舞台が変わっただけ。
ロッカー、車、トイレの個室での号泣は、何百回も体験してきた「日常」からのシークエンスにすぎなかったのだ。(了)