ランディジョンソン_













■長身ファミリー

ーーーあの日もこんなふうに風が強かったよ・・・。
 ランディは勝ち投手になるとたいてい空を仰ぎ、きき腕を高くさしのべる。
 1992年のクリスマスに家族に見守られながら、心臓発作で息をひきとった父、ローレン・‘バド’・ジョンソンに勝利を捧げるための厳粛なポーズなのだ。

「もう僕は野球をやめてしまいたい」

 ランディは母のキャロルと婚約者のリサにそう告白した。それほど、父親の急逝には打ちのめされた。ところが、キャロルはそれを断固として許さなかった。

 サンフランシスコ空港から高速道路に乗る。
 北に向かうと途中で「スリーコム・スタジアム」という標識に出くわす。
 数年前まで「キャンドルスティック・パーク」という名称で知られていた。
 そこから橋をわたってオークランドに移動すると、左手に別な野球場がすうっと姿を現す。

 現在は「ネットコム・スタジアム」という、あまり情感のもてない名称に変わってしまった。
 今もなおランディ・ジョンソンにとっては、そんな球場名よりも「オークランド・コロシアム」という名のほうが何倍もしっくりとくる。

 7歳で本格的に野球をはじめた。最初に試合をしたのはここ「オークランド・コロシアム」だった。
 さらにいえば、2度めの試合も3度めの試合も、数え切れないほどの試合をここでこなしたものだ。

 ランディはセンシティブで、神経質な子供だった。
 チームスポーツになんとなく萎縮してしまい、野球の練習も途中で抜けて家に戻ってきてしまった。 それを知ったキャロルはカンカンに怒った。すぐに車を運転して息子をふたたび野球場に連れ戻したのである。

「あのとき僕は将来は野球選手になりたいなんて、考えたこともなかった。僕の憧れはあくまで父親であり、父親のような警察官になるつもりでいたんだ」

 1963年9月10日。カルフォルニア州のワルナット・クリークという、人口5万人足らずの小さな町でランディこと、ランドール・デビッド・ジョンソンは生まれた。
 ジョンソン家にとって6番めの子供で、202センチのバドを筆頭に家族は皆が皆、そろって長身だった。
 まもなく警察官だったバドの転勤に伴って、一家はリバーモアという町に引越す。
 そこはオークランド・コロシアムから車で一時間弱の距離だった。
 丘という丘には幾つもの風車が並んでいる。「ゼネラル・エレクリック」社による風力発電の研究と開発が行われていた。キャロルはそこの社員になった。
 ランディはクルクルと回る、白く美しい羽を眺めながら育った。

 さて、父親のバドは雪の深いミネアポリスの出身で、スキー・ジャンプの名手だった。
 野球は本格的にやった経験はなかった。が、近所の人たちはソフトボールのチームをつくっていた。バドは膝の関節炎という持病があったにもかかわらず、そこでプレーすることを楽しんでいた。

 ランディの運動神経が秀でていた。
「いずれはメジャーリーグでも通用するはずだ」
 と確信めいた野心を抱くと、裏庭でくる日もくる日も息子に投球練習をつづけさせたものだ。
 ところが、幼い時分からランディの気性はスポーツ選手のものというより、芸術家のそれに近かった。今もそうは変わっていない。

 美意識と情感が豊かだった。芸術の方面に進んでもおそらく成功していたはずだ。
 その反面、プライドはめっぽう高く、ややエキセントリックで、心がたやすく傷ついてしまう。
 かつて多くの画家たちがそうであったように、繊細な感受性と強いプライドという相反する部分が自分の中でたびたび衝突してしまう。そのためランディは強いコンプレックスに支配され、ささいなことでも腹をたてた。

 背が飛びぬけて高いことがからかいの種になった。
「ロング・ネック」(長い首)などのあだ名をつけられ、とてもイヤがっていた。
 実際6年生のとき、すでに6フィート(約183センチ)あった。
 どの集合写真を見てもランディがひときわめだつ。クラスメートたちは彼の肩ぐらいまでの高さでしかなかった。
 
 母のキャロルはそうした息子の心情を理解していた。
 「スイートピイー」(小さな豆、もしくはその花)とランディのことを呼び、その習慣はランディがメジャーリーガーになった後も変わらなかった。
 1992年にアリゾナ・ダイヤモンドバックスに移籍する記者会見の場でも、キャロルは「スイート・ピイ」と呼びかけていた。
 幸か不幸か内向的なタイプではなかった。
 ランディはたびたびケンカ騒ぎを引き起こし、学校の先生からは「乱暴者」とみなされていた。
 もっともこの「問題児」は多才で明朗な性格が愛され、友だちは多かった。

■ ローリングストーンズの影響

 野球以上に飲めりこんでいたのがロックバンドだ。憧れはなんといってもローリング・ストーンズ。 さっそく彼らをまねて、ランディも長髪をなびかせながらドラムを叩くようになった。練習熱心なので、上達も早い。

「本当は音楽で食べていきたかったんだけど、難しいそうだったから野球選手になったのさ」

 野球や音楽だけではなく、バスケットボールも名手だった。あちこちから誘われ、春夏秋冬と引っ張りだこになった。
 ピッチャーとして才能を開花させたのは、高校のときの監督、エリック・ホフの手腕によるものが大きい。
 ランディはすでに198センチに成長していた。
 それまで長い腕をコンプレックスでしかなかった。ホフ監督はそれを長所として、最大限に生かす投球のメカニックを教えこんだのである。
 ややスリークォーター気味で上体に巻きつくように腕がしなる、ランディの個性的な投球フォームは、このとき原型ができがった。

 ホフ監督は名門USC(南カルフォルニア大学)に入学することができるように尽力してくれた。
 当初USCとしてはランディ・ジョンソンに対して、バスケットボールでのスポーツ奨学金しか考えていなかった。ところが、ホフ監督の働きかけで野球のほうでもスポーツ奨学金がおりることになった。 
 ホフ監督とバドが南カルフォルニア大学を進めたのは、ロッド・デドー監督がいたためだ。
 トム・シーバーからマーク・マグワイアまで、多くのレジェンドがこの名将が指揮するグラウンドから巣立っていった。

 高校最後の試合でランディは完全試合を達成している。

 もっともその試合を見ていたメジャーリーグのスカウトはたった2人だけだった。USCへの進学がほぼ決定していたためだ。そのうちの一人だった現ブルージェイズのスカウト、トム・ヒンクスは述懐する。

「球はめっぽう速く、ストレート1本でも高校生なら十分におさえることができた。ただコントロールがひどくって、荒れ球ばかり。他の試合だと三振の数と同じぐらい四球も与えるんだけど、あの試合は珍しくコントロールが安定していた」

 結局このときアトランタ・ブレーブスがドラフトで指名している。

 とはいえ、学生をつづけようというランディの意思は固かった。

 バスケットボールとの兼業プレーヤーは2年までで断念、スポーツは野球1本に絞った。
 その理由が大学で専攻したファイン・アートにのめりこんだためだ。このあたり、いかにも芸術家肌のランディらしい。
 見事なデザイン画を仕上げる一方で、写真にもはまった。
 南カルフォルニア大学に通っていた当時の学生の多くが、長身長髪髭だらけの男が、ペンタックス製のカメラ道具一式を背負い、鋭いまなざしでキャンパスを往来していたのを記憶している。

 ランディの撮った写真は大学で発行している新聞や地元のロック雑誌などで採用された。

 社会人になってからも、行く先々で美しい景色を撮影することを無類の楽しみにしていた。
 1990年の日米野球で来日したときも一人だけ夜明けに外出し、東京湾まで出向いて三脚をセットし、朝日の撮影に没頭するランディの姿があった。

「もう日本行きはあれ1度きりでいい。撮影は終わったから」

 とは本人の弁である。

 注釈・こう発言したものの、ランディはある時期から大の日本びいきになり、ライブハウス「クロコダイル」にもたびたび来訪している。


■アーティストとしての評価


 90年にロサンゼルスで開催された「アート万博」。ここではランディの作品集が出展され、芸術方面の評論家からも高い評価を受けた。
 最高傑作は道端にあるゴミ収集用のボックスに車が突っ込んでしまった事故写真、「カー・イン・ザ・ダンプスター」だった。

「大学に入った1年めは腕にしこりを覚えてね。監督も気をつかってくれて、あまり試合では投げなかった。それもあって本格的にファインアートや写真に取り組み時間はたくさんあったんだよ。大学に行ってよかったと思う。」

 1年めは17イニングしか投げていない。
 翌年の春になると、腕のしこりも癒えて、全快で投げられるようになった。
 腕がさらに下がってサイドスロー気味になった。それは故障を恐れたためと大学野球の狭いストライクゾーンに適応するためだ。
 大学の審判はリトルリーグや高校野球は比較にならないほど権威をもっている。当たり前のことのようだが、ボールとストライクの見きわめが厳しかった。

 2年生になると、ランディは5勝3敗とリーグ優勝に貢献。カレッジ・ワールドシリーズにチームを導いている。
 3年生になると自他ともに認めるエースピッチャーになった。コントロール難はあいかわらず。1試合で10以上の三振は奪っていたものの、与えた四球はその数を上回ることが多かった。

 1985年の6月、ちょうど大学3年の授業が終わる頃、知らせが飛び込んできた。モントリオール・エクスポズがドラフト2順目でランディ・ジョンソンを指名した。前回のときと違って、

「機がすでに熟した、もはや大学で学ぶことは何もない」

 という気持ちがランディにはあったし、監督や両親も同感だった。

 さっそく入団契約に踏み切った。

 
■マイナーリーグでの日々

 ニューヨーク州の郊外にあるジェームスタウンの1Aに、この長身のルーキーは送り込まれた。
 さすがに大学とのレベルは段違いで、ランディはここでも制球のなさに苦しんだ。
 バッターたちは格段と選球眼がよく、ノーコンを看破すると、なかなか振ってくれない。
 27イニングを投げて、24四球という情けなさ。1年目も2年目もリーグの四球王に輝いた。

 もっとも若いサウスポーにはありがちなことと考えられていた。
 時間はかかっても首脳陣はランディをじっくりと大きく育てる方針だった。
 コントロールの欠落よりももまずスレンダーな身体と体力に不安を覚え、ウェイトトレーニングと体重コントロールでスタミナをつけることを当面の課題とした。

「野球のプロになったというよりも、ボディ・トレーニングの仕事についたような気分になった」

 ほとんど毎日をウェイトトレーニング室ですごす。やがて、筋肉がついて体重も108キロになって、ストレートの威力も増した。

 1Aのフロリダ・ステイト・リーグでは、ウェストパーム・イーグルスの一員として、8勝7敗。119イニングを投げて、133の三振を奪っている。

 3年めは2Aのジャクソンビルに昇格したものの、あいからずで5月2日の対ハンツビル・スター戦では9四球、9月12日の対バーミンガム・バロンズではふたたび9四球。

 もっともバロンズ打線にはヒット1本しか許さなかったため、6対2で試合に勝つことはできた。

 ジャクソンビルのピッチング・コーチのジョー・ケリガンは198センチの長身だったから、自らの経験をふまえて適切なアドバイスを与えることができた。

「単なる‘投げ屋’ではなく、ピッチャーになれ」

 具体的な策としては、まずストレートだけにたよらず、スライダーとカーブをもっと混ぜること。それからもう1つは、

「力いっぱいに投げるのは、ここ一番のときだけでいい。少し抜いて投げてみろ」

 というものだった。

 半信半疑のままランディが教わったとおりを試したのは、6月8日の対グリーンビル・ブレーブス戦。これまで投げてきたストレートを「A-ファストボール」、スピードを落としたストレートを「B-ファストボール」と名づけ、この日はBばかりを投げてみた。

「少し不安はあったけれど、実際に試合で投げてみたらB-ファストボールが案外と通用するんだ。ともかく、いちばんよかったのはA-ファストボールを投げているだけのときよりも、頭を使うようになったことだ。そうすることで僕は単なる‘投げ屋’ではなく、‘ピッチャー’になることができたんだと思う」

 ちなみにこの試合でランディは四球5、ワイルドピッチ2。当時のランディにしては上出来の内容で、5対4で試合にも勝つことができた。
 とはいえ、簡単にノーコン病を克服したわけではなかった。
 8月19日には試合開始早々、最初のバッターと2番めのバッターに四球。次のバッターに3ラン本塁打を浴びてしまうなど、一進一退をくり返した。

 ケリガン・コーチは言った。
「2-3や1-3のカウントからも、スライダーを投げることができなくては、まだ本物とはいえない」
 当時のチームメイトで、後にナショナル・リーグのMVPに輝いたラリー・ウォーカーは回想する。
「最初に見たときから、センセーショナルなものを持っていた。AだかBだかわからないほど、ランディの直球は本当に威力があった。なんとかミートしてもヒット性の当たりにはなかなか結びつかなかった。」

 1987年のシーズンは11勝8敗で終了。183奪三振でリーグの奪三振王に輝くと同時に、四球王の汚名がはずれた。
 1988年には、3Aのインディアナポリスに昇格。

 まだ独身だったから試合のある日、ランディはまず近所のレストランに歩く。
 パンケーキとスクランブルエッグとミルクをとることが日課となった。
 そこで新聞に目をとおす。必ずスポーツ欄は読みとばすことにしていた。
 それから部屋に戻るとテレビをつけて、1時間ほどドラムを叩いてから球場に出かける。
 この生活パターンは9月にメジャーリーガーに合流してからも変わらなかった。ランディは回想する。

「マイナーリーグ時代は、登板の前夜は頭と足を逆向きにしてベッドで眠るというゲンかつぎをしていた。ところが、テレビを見ながら寝てしまったことがあり、朝起きたら頭はちゃんと頭のほうを向いていた。しまった!と思ったのに、その日のゲームで勝ってしまった。それ以後は一切合財のゲンかつぎをやめにしたんだ。やっぱり枕のあるほうで寝たほうが気持ちいいもの」

 バンザイしている手のオモチャを肩につけてスタンドのファンを笑わせてみたり、ヘビのゴム人形をロッカールームに隠してみたり、いたずらが好きなランディはチームの内外で人気者だった。

 チームメイトだったブライアン・ホルマンの話だと、
「ある試合でバッターの頭に早い球がいった。うまくよけたから助かったんだけど、そのバッターは頭にきたらしく、マウンドに詰め寄っていった。ランディのきたらそのとき‘オレを混乱させるな!おまえの生活がかかっているんだぞ’と叫んだのだよ」

 ランディは短気というより、若かったこともあってまだまだ血気盛んだった。
 その風貌からもわかるとおり、心情は野球選手というよりエキセントリックな芸術家に近かった。

■右ストレートで骨折


 6月14日。ランディをメジャー昇格させるかどうか、検討するためにモントリオールからスラップがやってきた。
 ところが、よりによって、打球が彼の利き腕の左腕を直撃してしまう。
 激痛だった。

「オレの野球人生はもう終わった!」

 わんわん泣き叫びながら、マウンドをかけおりた。
 右ストレートで、ベンチのバットケースを殴りつけた。
 レントゲンで検査してみたところ、左は単なる打撲で、骨に異常がないことが判明。
 右手のほうは正真正銘の骨折だったため、6週間も試合に出ることができなかった。

 8月いっぱいでマイナーリーグが全日程を消化してしまうと、はじめて上から声がかかった。
 骨はすでに元どおり、くっついていた。
 練習に参加して、検査を重ねた後、正式にメジャー登録の届けが出されたのは9月13日。

 初登板は9月15日、本拠地オリンピック・スタジアムで行われた対パイレーツ戦だった。
 グレン・ウィルソンにホームランこそ打たれたが、5回を投げて5三振、3四球、6被安打に封じ込んだ。
 味方はアンドレ・ガララーガは3ラン本塁打、3塁打、3打点と大当たり。
 リリーフのアンディ・マグガフィガンの好投もあって、初登板で初勝利をおさめることができた。

 当時の新聞を見ると、ランディは投球内容よりもメジャーリーグ史上最高の208センチという身長についてスポットライトを当てたものが目につく。

 シーズンは残り少なかったが、この登板も含めて4試合に投げたランディは、負けなしの3勝。次の年は新人王の最有力候補にあげられ、本人も自信を深めていた。

 ところが、予想に反して、翌年は開幕から4連敗。30イニングを投げて26四球、26三振という冗談のような数字を残して、5月9日にマイナー落ちしてしまったのである。

■シアトル・マリナーズへ

 4位より上になったことがない弱小球団、シアトル・マリナーズがランディの才能に目をつけたのも、同じ頃のできごとだ。
 5月25日、彼らはエースのマーク・ラングストンとマーク・キャンベルをトレードに放出し、見返りにブライアン・ホルマン、ジーン・ハリスらと共にランディを獲得した。
 さっそくマリナーズのユニフォームを着たランディは、いきなり今まで経験したことがないほど大人数の前で先発するという試練にみまわれた。1989年5月30日、ヤンキースタジアムのヤンキース戦だった。センターを守っていたケン・グリフィー・ジュニアは試合の後、

「ランディの手がキャッチャーに届いてしまうのでは、と心配してしまったよ」

 と報道陣に語り、大はしゃぎした。
 ランディは156キロの速球でヤンキース打線を圧倒し、6回を6安打、2失点、3四球、6三振で、チームを3対2で勝利に導いたのである。

 1990年からは3年連続アリーグ与四球王の座につく。その一方で、1992年からは4年連続を含む5回の三振奪取王に輝く。こんな芸当はランディをおいて他には考えられない。

 1990年6月2日には対タイガース戦で、マリナーズの球団史上初のノーヒットノーランを達成した。

*たまたま筆者もその試合は記者席で見ていた。試合後の会見で報道陣の数は合計10人ほどしかいなかった。もちろん日本人は一人だけ。

 スター街道をのぼりつめるに過程で、私生活もかなり華やかなものに変貌していく。
 まず、写真とファインアートの個展を開いてみたら1万4000ドル分も売れてしまった。これはさっそくチャリティーの団体に寄付した。

 ゲディー・リーやクリス・ディガーモといったヘビーメタルのスターたちが、アルバム製作中のスタジオに招待してくれるようになった。

 チームメイトのジェイ・ビューナーをタイムズスクエアに立たせて撮影してみたりもした。

 自分のチームはもちろんのこと、他チームのピッチャーたちともすぐ友だちになってしまうランディは、その幅広い交流からさまざまなものを学び、幾つかの転機に出会うことになる。

■ノーラン・ライアンとの出会い

 なんといっても、尊敬するノーラン・ライアンが、
「前からきみに投球フォームについて、言っておきたいことがあったんだよ」
 とアドバイスしてくれ、指導を受けることになったのは貴重な体験だった。

 ライアンも若い頃はノーコンでならしたので、とても他人ごとではなかったのだろう。
 具体的な練習方法や精神面でのコントロールを伝授してくれた。
 さらに、彼が絶大な信頼を寄せている投手コーチのトム・ハウスを紹介された。
 科学的にランディの投球フォームのメカニズムを懇切丁寧に説明してくれた。
 フォロースルーのときの上体の使い方に重大な欠陥がある。しかし、要はバランスの問題なので、矯正は可能であることを指摘してくれた。
 ついにコントロール難を克服したランディ。ウェイド・ボックスの言葉を借りれば「アリーグでもっとも脅威を与えるピッチャー」に成長をしていった。

 1993年の11月にリサと結婚。1994年の12月28日に長女のサマンサが誕生したことも、ランディの心の大きな変換期をもたらした。

「サマンサが生まれたときメジャーリーグはストライキ中で、いつまた野球をすることができるのか、重く沈んだ心境にあった。でも、子供をもってはじめて、両親がいろいろなものを犠牲にして僕たちのことを育ててくれたんだって、理解することができた。世の中には野球よりも大切なものがある、それは愛情と尊敬の心だってことに気づいたんだ。」

 本拠地のキングドームには背番号51のユニフォームを着こみ、つけヒゲと長髪のカツラをつけたファンが出没。「アメリカン・ウーマン」の替え歌で、ランディを応援する歌詞の大合唱が起こるようになった。
 

 86年に長年苦しんでいた背中を手術。しかし、ランディはよみがった。88年になってシーズン途中のトレード期限ぎりぎりの夜中、電撃トレードでヒューストン・アストロズに移籍が決定した。3人の子供とリサをつれて、シアトルを去ることになったのである。

「僕が打席に立つと、バッターが爪楊枝に見えてしまうんじゃないかな?」

 とジョークを飛ばすほど、ランディはナリーグで打席に立つことを楽しみにしていた。 もっともヒューストンが単なる通過地点にすぎなかった。

■NBAフェニックス・サンズと練習

 ランディは西海岸の球団を希望した。理由は「西海岸の気候が好きだから」
 代理人のアラン・ニーロは99年からはアリゾナ・ダイヤモンドバックスと4年連続総額5240万ドルの契約を成立させた。
 ランディはアリゾナに移った1年めに、史上最短の先発29試合目で300奪三振のを達成している。
 ちなみにダイヤモンドバックスとの契約条項にはNBAのフェニックス・サンズのシーズン席が含まれていた。ランディはサンズの選手ともすぐに友だちにいなってしまい、練習に連日参加するようになった。
 打線の援護に恵まれず、あいかわらず念願のワールドシリーズ出場の夢からは遠ざかっていた。が、決してあきらめるつもりはない。インタビューには気軽に応じることにしているけれど、その代わりに自宅での取材は一切お断わりだ。

「家族と団欒する場所で、インタビューを受ける気になれないんだよ」

 
*これもその後、考えを替えている。
 
 そう遠くない昔、キングドームは当時としては最新のテクノロジーを注ぎ込み、21世紀に飛びたとうとする都市・シアトルの希望の象徴といえる存在だった。
 野球の試合というものは大勢の人間が関わって成立する瞬間芸術なのだから、いわばオーケストラの演奏みたいなもの。バシーン!と終楽章のシンバルを叩きおわっても残響と興奮とがしばし尾をひき、人々はそこから去りがたい思いにかられてしまう。
 ランディの投げる試合の後は、特にそれと似た現象が顕著だった。

「キングドームのいちばんの思いでは、やっぱりあれだね。ブルペンで投げ込んでいると、みんなが‘アメリカン・ウーマン’を歌いながら、僕を応援してくれるんだ。なんだかお祭り騒ぎで、ローリング・ストーンズのコンサートみたいだけどね」

 コンサートの主役はローリング・ストーンズではなく、ランディ・ジョンソンその人。アーチストとして天賦の才能を目覚めさせ、燃焼させたのは、キングドームのピッチャーズ・マウンドだった。
(了)(初出「月刊メジャーリー)(文責・梅田香子)


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