shutterstock_1402682063Rome, Italy 5/20/2019 - Ancient Soccer in Foro Italico, a sports complex in Rome, Italy. It was built between 1928 and 1938 as the Foro Mussolini 

 ・ベニート・アミールカレ・アンドレーア・ムッソリーニ Benito Amilcare Andrea Mussolini 


 






 ベニート・アミールカレ・アンドレーア・ムッソリーニ Benito Amilcare Andrea Mussolini 

 最初はヒトラーよりも欧州では有名だった「陽気な独裁者」です。
 無類のサッカー好き。
 イタリアで1934年ワールドカップ(第2回!)を実現するために、ムッソリーニはありとあらゆる手を尽くします。
 チームの愛称は「ムッソリーニのアズーリ(青)」。試合はすべてスタジアムで観戦しました。


 第1回ワールドカップは広く知られているように、南米のウルグアイで開催されました。当時はまだ大西洋を横断する旅客機がありません。
 ヨーロッパからはベルギー、フランス、ルーマニア、ユーゴスラビアの四カ国だけ。なので開催国のウルグアイは非常に気を悪くして、第2回のイタリア大会への不参加。

 いつの時代も困った政治家たちの犠牲になるのは、アスリートたちです。


 国際オリンピック委員会(IOC)と国際サッカー連盟(FIFA)の仲は良好とはいえず、ロサンゼルス五輪ではいったんサッカーは五輪の競技からはずされています。

 とはいえ、ナチスドイツ傘下のベルリン五輪で、イタリアは優勝しているのです。さすが!

 日本は1回戦ではスウェーデンをやぶり、「ベルリンの奇跡」と言われた五輪です。2回戦ではこのイタリアに当たって8対0で敗れています。

 さて、少しだけ年代をさかのぼり、NHK大河ドラマの「いだてん」です。

 ムッソリーニ副島道正との面会は1985年1月16日に午後10時、すでに杉村陽太郎がセッティングしていました。
 東京を12月13日に出て、ローマには1月14日には到着。このとき副島は少しめまいを感じて、体温をはかったら37度、それが翌日には38度5分をこえてしまったのです。
 
 それでも「歩けるから」と16日5時45分、ムッソリーニの首相官邸に到着します。控室で副島は倒れてしまい、大変な騒ぎになったとのこと。
 ホテルにかえされ、3時間後に意識だけは回復。ユダヤ人ゆえ亡命中のベルリン大学のスティックゴールド博士を呼ばれて、「インフルエンザと過労」という診断。それが肋膜肺炎に変わり、昏睡状態で1週間は生命の危機にあったのです。

 戦前はまだ抗生物質もないし、インフルエンザや肺炎で亡くなる人はたくさんいました。身体を休ませるぐらいしか治療がありません。

 その間に陸軍の閲兵式があります。
 どしゃぶりの中、2月だというのに、杉村陽太郎だけが雨に打たれる位置に立ちます。
 他の国の大使は雨除けのテントの下で整列しています。
 ムッソリーニはちらっと彼らを見ただけで、通り過ぎていきました。
 

 2月6日、外務省から使いがきて、8日午後6時、副島ムッソリーニと面会することになりました。

 このとき杉村はフランス語、副島は英語を話します。

 ムッソリーニがエチオピア侵攻をはじめるのは10月なので、この会見ではその話はでていないと考えるほうが自然です。


 ぽーんと話しが飛びまして、イタリア降伏。ドイツもヒトラーが自殺して、日本だけが世界大戦を続行中。

 ムッソリーニは61歳で略式処刑。愛人と共に逆さづりで遺体はさらされました。<取材・文 梅田香子>

 NHKの「いだてん」が好きで、こちらにもいろいろ史実を書いています。ご笑覧ください。

 MM番外編 ネタバレ注意!「いだてん」の史実です!