いよいよ来週のNHK大河ドラマ「いだてん」、投票で開催地が決まるはずです。楽しみ、楽しみ。
ベルリン五輪の前日、アドロンホテルの鏡の間。
かつてナポレオンも焙煎したブランデンゲルグ門とパリ広場に面しています。
パリ広場といっても、ここはドイツです。ベルリンはフランスからの移住者が多く、意外かもしれませんが、ヒトラーがドイツ国籍をとったのは成人してから。オーストリア生まれなので、マリー・アントワネットの国とは!
アドロンホテル(現地の発音はちと違うみたい)は今でも、フランス料理では有名なホテルです。
いわゆるミシェラン2つ星。
ここは嘉納治五郎の定宿ホテルでもありました。贅沢をしたい、という思いではなく、日本を一流国と認めてほしい。嘉納はそういう気構えの明治男でした。
オリンピックだけではなく、小学校教育にローマ字をとりいれるため、奔走したりもしています。
さて、予想は5分と5分です。うまくいくと6票ぐらい上回るかも、というのが嘉納という希望的予測。
郵便での書面投票も14通あって、出席者は52人。合計66票で日本とヘルシンキの一騎打ちです。
すでにフィリピンは書面で日本に一票を投じていました。
ロサンゼルス五輪の成功で、日本に感謝しているアメリカからは、IOC委員3人が出席する予定でした。ところが、シェリル将軍が急死してしまい、代理をたてなかったので2票。
ドイツとイタリアは日本に投票してくれるはず。
確実な票はそれだけ。
初日、ラトゥール会長に最初に指名された治五郎の英語のスピーチがすばらしく、
「アジアの一角に全世界の若者が集うとき、世界は新しい平和への幕開けの時代を迎えるであろう」
と締めくくります。
午後からはフィンランド代表のスピーチでした。
その後で挙手したのは、中国代表の王正延です。会場に緊張が走ります。
王は第一次世界対戦後のベルサイユ会議で日本と対立し、調印を拒否した外務大臣です。
アムステルダム五輪では直前に「張作霖爆破事件」。ロサンゼルス五輪も一人だけ。中国は選手を一人も派遣できませんでした。すでに満州事変ははじまっていて、日中戦争を目前に控えていました。
ただし、ベルリン五輪には60人以上の選手を出場させる予定で、一緒につれてきていました。
「私はキリスト教徒であり、個人としては弱いものの味方をしたい。ゆえにフィンランド代表の言葉には同情せずにはいられない。だが、しかし、公人の立場では私はアジア人の一人である。歴史的に光栄なオリンピックがはじめてアジアで開催される可能性を考えたら、」
エール大学で学んだ王の英語は、都会的な響きを伴っていました。
「私は東京を支持せずにはいられません」
会場がざわつきます。これには嘉納も副島も驚きを隠せません。小刻みに足が震えました。
出席者はお互いの顔をのぞきこんだり、王の「アジア初」という言葉に心を動かされたようです。
翌日の午後3時から投票が行われることになりました。
1935年7月30日。アドロンホテルの廊下には世界中から新聞記者が詰めかけていました。午後6時45分、やっと扉があくと、日本人記者が英語で質問します。これ、まーちゃんがやるのかな?
「どこの国ですか?」
「TOKYO!」
それを聞いた新聞記者たちは電話を用意してある部屋にいっせいに走り出しました。
東京36票、ヘルシンキ27票、意外な大差でした。
翌日から、ベルリン五輪がはじまります。前畑、がんばれ!bye now
