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 昭和史おたくなので、「いだてん」のネタバレがたくさんあります。ご注意ください。














 東京五輪開催が正式に決定した際、ベルリンまで同行した新聞記者たちは国際電話で原稿を送ります。
 当時は国際電話の値段が今の数倍だったので、「勧進帳」と呼ばれる方法。(これは私もマイケル・ジョーダンが最初に引退したとき、やりました。会見のとき日本時間では午前2時を回っていて、日本では朝刊の輪転機を待たせ、スタンバイしていたのです)
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 写真の伝送はまだ技術的に問題が多く、どこの新聞社でも屋上で伝書鳩を飼っていました。
 とはいえ、ベルリンからでは鳩も無理です。
 各新聞社共ネガフィルムを持って、互いをだしぬきあい、飛行機やシベリア鉄道を乗り継ぐ。壮絶な五輪場外でのマラソン競技があったと語り継がれています。
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 この新聞では武者小路実篤が「観戦記」を寄稿しています。
 兄の武者小路公共がドイツ駐在大使。大島浩武官の陰湿ないじめで半年近く日本に帰っていました。五輪前はさすがにまずいと思ったのか、ベルリンに帰ってきたところです。
 ゾルゲ東郷茂徳に直接もちかけ、断られているのに、大島がその間に日独防共協定をまとめてしまいます。

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  基禎(そん きてい、ソン・ギジョン)選手は「いだてん」に出てきましたね。
 金栗式マラソンシュースを履いてベルリン五輪に出場します。(このシューズの歴史は後のナイキまでつながっていきます)
 明治大学の南 昇竜なん しょうりゅう、ナム・スンニョン選手と共に日本代表で表彰台にのりました。

 2人とも嘉納治五郎は満州国からの参加も考えていました。が、このときIOCは満州国を認めませんでした。
 そもそも犬養毅首相も「チャイナのものはチャイナに返せ」と主張して、515事件で殺害されてしまったのです。 
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 当時の大陸は大きくわけると3つ。この図表は、
かわぐちかいじ著「ジパング」16巻の引用です。

1.蒋介石の国民党。(ドイツから武器を買い、アメリカの援助を得て日本と戦います)

2.汪兆銘の南京政府。(これは日本の傀儡です)

3.毛沢東の共産党。(日本が負けて、蒋介石が台湾に去った後、政権をとります)

 この「ジパング」という漫画は自衛隊がミッドウェイ海戦にタイムトリップ。満州国にアジアのアメリカを作ろうとして失脚した石原莞爾が、アメリカより先に原爆を完成させてしまうという恐ろしいフィクションです。アマゾンでアニメ動画も公開していました。
 
かわぐちかいじ
講談社

 東京五輪が決定した翌年、1937年の7月には盧溝橋事件で日中戦争スタート、12月には南京虐殺。日本国内では鉄やガソリンが足りなくなります。
 翌々年、1938年5月には氷川丸で嘉納治五郎が永眠。
 IOCのラトゥール会長は非公式ながら、来栖三郎ベルギー大使に、「東京が五輪を返上し、ヘルシンキに譲るのならば、次からは満州国も認めよう」という条件をだします。
 日本政府や陸軍は「満州国を世界が認めることになる」と喜びました。
 同年8月には正式に五輪返上が議会で決まります。
 
 来栖大使のことは前に書きました。私は星野監督のことになると、ねちこいです。ほとんどビョーキ。自覚しています。
 文春オンライン→ 私が「星野大学」で学んだこと、私が星野仙一さんに伝えたかったこと


 とはいえ、このヘルシンキ五輪は第二次世界大戦勃発で中止になります。Bye now