
水泳の前畑秀子が少しだけ、稲田悦子について語った「アサヒスポーツ」の記事があります。
前畑は尋常小学校5年のとき、東京の大会にでて、ハワイ遠征に連れて行ってもらっています。
この記事によると、
「今でいえばスケートの稲田悦子さんのように、将来のびそうだから舞台度胸をつけさせる、試合馴れさせるというような意味からハワイに連れて行っていただいたのではないかと思われます」
と語っています。そして、ハワイからの帰途、椙山女学校に招待され、室内プールを見て、編入を決めました。
ハワイって今では簡単にいけますが、当時はかなり豪華な船旅だったはずです。
残念ながらまだ幼かったので、前畑はあまりハワイのことを細かくは記憶していないようです。
この頃、226事件の遠因にもなったように、東北は寒い冬がつづき、飢饉で苦します。
日本の主な輸出産業は生糸です。第一次世界大戦でヨーロッパは焼け野原になってしまったので、日本とアメリカがこの分野で市場を広げます。
関東は震災があり、その後は震災景気があります。
谷崎純一郎のような名士たちはこぞって船で関東地方へ引っ越しました。
「大正デモクラシー」については、「稲田悦子物語」ですでに書きました。
アサヒスポーツの広告をみても、大阪に住所がある企業のほうが多いのです。
同じ日本でも東と西では格差がでてしまったようです。

フィギュアスケートだけではなく、水泳でもなんでも五輪をめざすレベルになると、昔も今もお金はかかります。
パスポートは今ほど簡単には発行されませんが、外務省も協力したし、財界人も助けたのでしょう。
それほど五輪に理解を示し、戦争に反対した日本人もいるにはいたのです。
でも、鉄が足りません。副島伯爵は早くIOCに開催権を返上することで、ヘルシンキ五輪に日本の選手を送り込もう、戦争が終わったら東京でまた開催できるはず、と考えたのです前畑や稲田のトロフィーはすべて供出され、もどってきませんでした。
「いだてん」の学徒出陣のシーンには、心うたれるものがありました。
「オリンピックできたんじゃないか!」
と。
総理大臣の東条英機はオリンピックには、まったく興味を示しません。
ドイツへ留学経験がある東条首相はヒトラーにあこがれ、ビュイックの屋根をわざわざはずして、オープンカーにして乗っていました。が、この日はさすがに雨でしたから、屋根のついたほうの車です。すでに日本はフィリピンのフォード工場を占領していました。鉄不足はあいかわらずでしたが、車だけはここからどんどん日本に入ってきたのです。<了>