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   デヴィこと、デブラ・トーマスを記憶していますか?

 ニューヨーク出身、1967年3月25日生まれ。
 スケートをはじめたのは10歳、21歳で引退して学業に専念して、医療の道へ進んだ。

 1986年、アフリカ系アメリカ人女性としてはじめて、全米フィギュアスケート選手権で優勝。女子はまだ3回転ジャンプが珍しかった時代にもかかわらず、デヴィは3回転トウー3回転トウのコンビネーションジャンプを軽々と飛んだ。

 同年、世界選手権で東ドイツ代表のカタリーナ・ヴィッドを超えて、アフリカ系アメリカ人としてはじめてワールドチャンピオンに。

 このときデヴィは名門スタンフォード大学の学生で、しかも結婚していた。

「母は私にたくさんの習いごとをさせてくれました。スケートはその中のひとつにすぎませんでした。でも、とても感謝しています」
  
 デヴィはスケートドレスを自分で縫った。他の選手のドレスも縫ってあげることで収入を得たりもした。
 
 翌1987年はアキレス腱をいため、ジム・トレナリーに次ぐ2位。世界選手権ではヴィットとわずかな差で二位になった。
 
 1988年、ふたたびデヴィは全米1位に返り咲く、カルガリー五輪のサドルドームは女王2人の対決を待つ。

is デヴィは規定で2位、ショートプログラムで2位。ヴィッドは規定で3位、ショートプログラムでは1位。
 2人とも同じ「カルメン」をフリーの演目に選んでいたため、新聞には「Battle of the Carmen(カルメンの対決)という見出しが躍った。
 
 最終滑走はデヴィだった。そこまでフリーはヴィッドが1位、エリザベス・マンリーが2位。規定で10位、ショート終えて8位の伊藤みどりが5種類のトリプルジャンプを7回成功させ、フリーだけだと3位に食い込んできた。
 
 緊張でミスを重ねたデヴィはフリーでは4位、総合ではヴィッド、エリザベスに次ぐ3位だった。
 アフリカ系アメリカ人としては冬季五輪で初のメダルである。


「いちばん忘れられない試合はやっぱりオリンピックです。決していい思い出ではないけれど、あのときの動揺ぶりを思い出します。今だったらもうちょっと違う結果をだせたのになぁ、とちょっと残念です。普段オリンピックのことはあまり考えないようにしています。」

 アフリカ系女性としては初、フィギュアスケートでカルガリー五輪、銅メダルに輝く。1か月後の世界選手権でも3位、引退して学業に専念した。

 3年後の1991年、デヴィはスタンド―ド大でエンジニアの学位をとって卒業。
 1996年にはアーカンソー大学の元アメフト選手、弁護士と再婚してアーカンソーのリトルロックで暮らす。翌年、息子のクリストファーを出産。

「ともかく子供のときから、算数と物理と微積分が強く、得意教科でした。最初の大学では1年のとき、微生物学を学んだけれど、どうもあまり向いていないような気がして、2年のときは友だちがやっている機械エンジニアに興味をもちました。その間にオリンピックがあって、戻ってきたら微生物学には戻れず、それならとエンジニアの学位をとることにしました。とても面白かったから。」

 まだフェローシップという奨学金を女性がもらうこと自体、少なかった時代だ。彼女はこの奨学金を勝ち取る。

 シカゴの名門、ノースウェスタン大学の医学部で学ぶ。

「いつから医者になりたいと思ったのか、ちょっと思いだせません。うんと小さいとき、将来は何になる?と聞かれたら、いつも医者と答えていました。母がオモチャの医療セットを買ってくれたことは覚えています」

 1997年以降はシカゴで整形外科医として活動した。
 関節炎の治療が得意分野で、400人以上を手術した年もある。
 チャリティ活動にもあいかわらず熱心だ。ボランティア医療団体WOGOからネパールに派遣された、最初のアフリカ系女性でもある。
 
 スケートはボランティアで教え、オリンピック委員会スポーツ医学委員として、これもボランティアで関わりつづけた。
 
 2000年にはフィギュアスケート殿堂入り。トリノ五輪の開会式にドロシー・ハミルエリック・ハイデンと共に招待された。