トリノ五輪の1ヵ月前、荒川静香(24=当時、以下同)は米国セントルイス空港に降りたった。
もう時間がない。ロシアのタラソワとのコーチ契約を解消してモロゾフに変更し、全米選手権の行われているセントルイスで合流した。とはいえ、モロゾフは全米選手権に出場する他の生徒を投げ出すわけにはいかない。結局荒川はほとんど自主練習という形になった。
セントルイスから練習拠点のコネチカットに戻る飛行機はエンジントラブルで胴体着陸。荒川は生きた心地がせず、一人つぶやいた。
「助かったらトリノでは心をこめて感謝の気持ちで滑ろう」
ようやく闘争本能に火が灯った。
常々「アイスショーで滑るほうが自分に向いている」と語り、何度も引退を考えた。一人っ子の荒川は転勤族の父と母に守られ、コーチは何度か変わったものの、もともと早熟な天才児で、連盟の秘蔵っこだった。高難度のジャンプもすぐに習得した。ところが、本人が欲をみせない。トリプルアクセルにしても、
「靴がおろしたてで固い日は飛べてしまうんだけど、実戦では無理でしょう」
と執着しなかった。
マイナー競技で、鉄拳制裁も珍しくなかった時代。小学生の荒川はスケート靴のまま逃げだし、コーチが追いかけて、そのまま2人はリンクを1周して、最後は笑って許してもらったこともある。ハンバーガーショップでバイトしてみたり、成人すると酒・煙草をたしなみ、決して優等生ではなく、年少者からも「しーちゃん」というあだ名で親しまれた。
98年、長野五輪に初出場した荒川は、金メダル候補だったリピンスキーもクワンも避けた3回転ルッツ-3回転トウループをSPで成功させた。
流行語にもなったイナバウアーはもともとステップの1種類にすぎない。後ろに身体をそらす動きは「レイアップ」と呼ばれ、スピンでは基本技のひとつ。実は「レイバック・イナバウアー」自体も、決して荒川だけの技ではなかった。
荒川は01年の全日本でもトリノ五輪と同じ「トゥーランドット」を滑り、レイバック・イナバウアーを披露している。が、ジャンプのミスが響いて、ソルトレイク五輪出場を逃した。
荒川にとって8年ぶりの五輪となったトリノ五輪。このシーズンはロシア女子として初の金メダルを狙うスルツカヤと五輪年齢に達していない浅田真央の成績がとびぬけていた。荒川はGPファイナル進出も逃し、全日本でも3位だった。
がっと氷を踏み込み、エッジを横に倒し、身体を後ろへそらすレイアップ・イナバウアー。
進化した荒川のダイナミックな動きは、指先に至るまでひとつひとつが細やかで、旋律にぴたっと重なり、氷を刻む音まですべてが音楽と一体化していた。
終盤にさしかかり、直後に3連続ジャンプが控えていた。
が、体力を温存するどころか、極限まで肉体の美に挑戦しつづけた自信と技術。
あの日あの瞬間、やめようと思っても、また引き戻されるフィギュアの魔力がオリンピアの女神と競合し、栄冠は荒川の頭上にもたらされた。(スポーツライター・梅田香子)
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