昭和のスポーツ史をおさらい。五輪延期の具体的な道のりと手順しておきます。
 前々回、1940年の幻の東京五輪をふりかえってみましょう。

1936年 2.26事件の年、7月30日に開催国ドイツで五輪前日、ベルリン市内のアドラン・ホテルでIOC総会が開かれ、次回は東京五輪が決定します。
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1937年7月 盧溝橋事件。(ばきゅーん!)満州事変から日中戦争に名称が変わります。

1937年9月6日。河野一郎がオリンピック中止を提案。(「いだてん」でもやりましたね!)

1937年12月 日本軍が南京を占領。12月15日シカゴ・デイリー・ニューズで”NANKING MASSACRE STORY”というスクープ記事がのり、世界中から非難をあびて「東京五輪をはく奪すべき」という論調がおきます。

1938年3月 加納治五郎がカイロのIOC総会で、東京五輪の開催を主張。ボイコットの意見は多かったが、IOC会長のラトゥール会長はこの時点では加納を支持します。 日本の新聞は「日本の正義が会議を制する」と戦意高揚調で、これを称えました。 その帰途、氷川丸で加納は79歳の生涯を終えます。

1938年6月20日、「ニューヨーク・タイムズ」が激烈な調子で、東京大会ボイコットを呼びかけます。 「日本政府の行動が数百人の中国人を死なぜ、かつ、その生存権をおびやかしていることにたいし、われわれは強い義憤を抱く。(中略)もし東京で五輪が開催されるのなら、われわれは同大会への参加を拒否することで、日本政府にたいする米国民の道徳的判断を示そう」
 米国のブランテージIOC委員は世界恐慌のとき、ロサンゼルス五輪に参加してくれた日本にたいし、恩義を感じていました。(これも「いだてん」にありましたね。1964年の東京五輪では、田畑の娘がブランテージの通訳をします)

1939年4月2日。IOCラトゥール会長がベルギーの日本大使館に出向き、ベルギー大使の来栖三郎に、「日本の良き友人」として、「むしろ日本側がオリンピックを辞退したほうが、日本の面目を保てるのではないか」と進言します。
 来栖大使近衛文麿内閣で、外務大臣にもどった広田弘毅にすぐ電報をうちます。  この時点ではドラマのように、すぐ五輪が消滅したのではなく、次点のヘルシンキに開催権をゆずり、日本選手団もそこに参加することになっていました。
 非公式ながら、見返りとしてラトゥール会長は「満州国」としての五輪参加も認めてくれることになり、陸軍としても喜ばしい選択ではあったのです。(第2次世界大戦で結局オリンピックの開催はなくなります)

*「いだてん」では出てきませんでしたが、広田弘毅はオランダ大使のときアムステルダム五輪で、感涙しまくり、外務大臣としても総理大臣としてもバックアップします。東京裁判で文官ただ一人、絞首刑になった悲劇の外交官です。 来栖三郎大使については、しつこいけど、孫娘が「神宮の恋」で戦後、星野仙一の妻になります。

1939年7月14日に商工省が万国博覧会の延期を決定。 これに並び、厚生省の木戸幸一大臣が東京五輪の延期を発表。 東京市長と体育協会にとっては寝耳の水の発表でしたが、長引く日中戦争で、鉄が足りなくなり、建設計画も進んでいません。 くりかえしになりますが、この時点ではオリンピックそのものが中止になったわけではなく、選手たちはまだ練習をつづけていました。

 スポンサー契約がなかったシンプルな時代の五輪ですら、これだけの段取りを踏んで中止にもちこみました。
 IOCからの呼びかけで五輪を中止するのなら、まだましかもしれません。
 日本のほうから「やめます」と投げ出してしまったら、莫大なキャンセル料が派生するでしょう。
 高校野球みたいに1つの新聞社と1つの団体が簡単に「中止」にはできない、それが現状です。