現代文明を基準とするならば、われら(アングロサクソン)が成熟した45歳の年齢なのに対し、日本人は12歳の少年のようなものです。by Douglas MacArthur

 

 1951年5月3日。上院の軍事外交委員会で、マッカーサーを公聴会に呼ばれた。午前10時35分からスタート、休憩を挟んだ午後、日本統治についての質疑が行われた。
 
マッカーサー自らの日本の統治を自画自賛した。
「人類の歴史上、占領の統治がうまくいった実例はほとんどないに等しい。」
 例外として
ジュリアス・シーザーの占領をあげた。そして、
「民主主義が浸透した日本が、アメリカ側の陣営からでて(共産主義に)行くことはない」
 と強調した。

 第2次世界大戦は終わってみればソ連の領土が増し、共産圏を増やしただけ。
 植民地の終焉と共に大英帝国が沈み、勝ったはずの米国が得たものはほとんどなかった。物資がない小国を長く占領するつもりはなく、「共産主義」への脅威だけが残った。
マッカーサーは次のように主張した。

「ええ、ドイツの問題は日本の問題とは完全、完璧に、違っていました。 ドイツ人は成熟した民族でした。われわれアングロサクソンが科学、芸術、神学、文化において45歳の年齢にだとすれば、ドイツ人は同じくらい成熟していました。しかし日本人は時間という点では古めかしい、にもかかわらず、非常に教育を受けた状況にありました。

 現代文明を基準とするならば、われら(アングロサクソン)が成熟した45歳の年齢なのに対し、日本人は12歳の少年のようなものです。

 まるで授業中のように、日本人は新しいモデルや新しい思想に影響されやすいのです。誰でもそこに基本的な概念を植え付けることができます。
 日本人は新しいコンセプトを受け入れ、柔軟に対応するため、充分にまっさらな原点に近いところにいました。

 ドイツ人はわれらと全く同じくらい成熟していました。
 ドイツ人が近代的かつ国際的なモラルを放棄したという点(ヒトラーに従ったということ)は、それは彼らなりに考えがあってのことでした。ドイツ人は国際的な知識が不足していたから、あのようなことをしたわけではありません。

 ドイツ人は国際的な知識に欠けていたから、そうしたわけではなかった。
 日本人のようにちょっと欲をだして、ドイツ人は軍事力を用いること、それがドイツ人が希望した権力と経済支配への近道であると考え、熟考したポリシーにのっとって軍事力を行使したのです。

 現在、あなた方はドイツ人の本質を変えるつもりはないでしょう
 ドイツ人は世界哲学の圧力、世論や彼自身の興味、その他もろもろの理由によって、彼らが正しいと思っている道に戻っていくはずです。
 そして、我々のものとはそう変わらない彼ら自身が考える路線に沿って、彼等自身の信念でゲルマン民族を作りあげていくのでしょう。

 しかし、日本人はまったく違います。全く類似性がありません。大きな間違いの一つはドイツでも日本で成功していた同じ方針を適用しようとしたことでした。控え目に言っても、ドイツでは同じ政策でも成功していませんでした。

ドイツ人は異なるレベルで動いていたからです。」

 ダグラス・マッカーサーとはDouglas MacArthur) 
 1880年1月26日、アメリカ合衆国のアーカンソーに生まれた。祖父の代まではスコットランドの貴族だった。
もっとも母はフランス系だったので、ダグラスは幼い頃は少女のような服装で育てられた。

 1905年には軍人だった父が駐日武官に就任、日露戦争の観戦武官だった。ダグラスも一緒に来日して東郷平八郎や乃木希典と交遊を深めたという話だ。

(そのわりにマッカーサーは日本人は皆、近眼だから飛行機の操縦ができないと決めつけ、開戦&奇襲でやられた後「日本軍はドイツ人のパイロットを雇った」と報告した)

  1903年に陸軍士官学校を主席で卒業。
  1928年、アムステルダム五輪に米国選手団長として参加。その間に妻の浮気が新聞沙汰になるなど、生涯でたびたびスキャンダルに悩まされた。
 結婚は最初の妻
イーズ、次は33歳下で16歳のエリザベス・クーパーとは結婚に至らず、ジーと再婚した)

Elizabeth Cooper (フィリピン生まれのダンサー、女優)

cooper3










 
1935年、スペイン領だったフィリピンの独立には、父も深く関わった。ダグラスもフィリピン軍の創設メンバーに加わった。
 1936年からはフィリピン総督に就任。マカラリアン宮殿で家族を呼び寄せ、生活する。

 
ペリー来航で日本を開国させたのはアメリカ合衆国だった。ただし、捕鯨船の補給地として求めただけのこと。
 その後は南北戦争や先住民たちとの内戦がつづいた。
 それゆえ、世界各国が植民地政策をとっていた時代だったにもかかわらず、海外進出には意外なほど積極的ではなかった。
 米国は工業国として目覚めるまでは農業大国として、「孤立主義」をとっていた。

 第2次世界大戦後、1945年から5年間、連合軍最高司令官(GHQ)として、占領地・日本(Occupied Japan)を最高権力者として統治した。 

 1950年からは朝鮮戦争の国際連合軍総司令官に就任するが、
「原爆を何発か落とそう」と提案するなど、米国大統領のトルーマンとは意見がことごとく対立。実はこの2人、一度も会ったことはないのだが、翌年にダグラスは解任させられた。
 退任後は大統領選挙への出馬宣言した。
 党内推薦には至らず、撤退を表明した。

 1964年、84歳で死去。

 バージニア州ノーフォークの「マッカーサー記念館」には、敷地内に夫妻の墓がある。

 <了><文責・Maria Loren >