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1941年12月8日(ハワイ時間12月7日)は「リメンバー・パールハーバー」の日、日本が宣戦布告をせず、スネークアタック(卑怯な奇襲攻撃)をしたと語り継がれてきた。来栖の名字にひっかけて、「クロス・アタック」(二重外交)という言葉も当時は米国で大流行した。

 時間よりも遅れてハル国務長官に文書を手渡し、野村吉三郎大使と共に、口汚くののしられたのは、この来栖三郎特別大使だった。
 (ちなみに来栖大使の孫が来栖扶沙子さん、星野仙一監督の妻である)
 その来栖大使の回想録が米国で出版された。




 

 日本の外交官たちの不手際で、宣戦布告の文書を手渡すのが遅れたため、というのが日本だけで定説となっている。
 しかし、14枚にわたる文書には「宣戦布告(declaration of war)という肝心の言葉がどこにも書かれていない。翻訳してタイプした外務省スタッフも両大使たちも誰一人、この文書を読んで、「ハルノート」への答えだと思い、「宣戦布告文」とは思っていなかったのである。

 ちなみにハルノートも英語の原文を読むと、#ハルノート 英文で読む と「満州」や「戦争」という文字はない。「石油の輸入についての話し合いを再開しよう」という一文も明記されていた。
 日中戦争が長引いて物資が不足しはじめ、東京五輪も中止になった。すでに日本では英語表記が許されなくなり、米英憎しという国民感情はピークに煽られていた。

 英国はともかく、アメリカは中国や植民地政策をとる考えはなかった。スペイン戦争でフィリピンでの利権をとり、マニアにフォードは工場を建てて、日本軍にも中国軍にも車を売っていた。

 当時の米国はまだ農業大国。ハワイもまだ併合したばかり、米国民の多くが場所も知らず、アジアや日本にさほど興味をもっていなかった。
 工業国としてフォードやGMなど車産業が生活スタイルを変えつつあった。
 自動車王フォードが全米一の納税者、彼は反ユダヤ人でナチス・ドイツやヒトラー総統と個人的に親しかった。
 「空の英雄」リンドバーグ議員にしても、「ナチスドイツを手を組もう」と呼びかけていた。
 イギリスのチャーチル首相が「助けてくれ」と電話したときも、ルーズベルト大統領は参戦に応じるわけにはいかなかった。

 手塚治虫著「アドルフの告ぐ」からの引用。最後通牒=宣戦布告文ではなかった。

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「あの日、真珠湾攻撃よりも55分遅れて、大使がハル国務長官に提出したものは、”帝国政府ノ対米通牒覚書”ですよ。正式な”宣戦布告文”ではありません。時間どおり提出していたとしても、奇襲は奇襲でした」

 そのことを気がつかせてくれたのは下田武三(元プロ野球コミッショナー、元外務省)だった。
「奇襲するつもりがなかったら、”declaration of war(宣戦布告)” と文書の上に書いて、”これから戦争しましょう”と数行で終わりますから、翻訳に時間がかかるわけないでしょう」

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   1907年生まれの下田武三は、来栖三郎よりちょうど20歳若い外交官だった。

 1943年から、ソ連(今のロシア)のモスクワ大使館に赴任。1945 年2月に帰国命令を受けた。
 シベリア鉄道では日本人は自分一人だけ。釜山港に到着すると、潜水艦の攻撃に備え、乗客全員に浮き袋が配布された。
 下関港から列車に乗ると、東京の空が真っ赤に燃えている。3月10日の大空襲だった。
 
 ポツダム宣言は7月26日に発表。印刷したものが日本中に飛行機でばらまかれた。。

 その日本語が稚拙なものだったので、下田さんが日本語訳しなおした。

 回答文をラジオで傍受して、翻訳したのも下田さんの仕事。subjectを「制限の下に置かれる」と意訳したのも下田さんのアイデアだった。

 下田さんは真珠湾攻撃の日のことも来栖大使のことも、よく知っていた。

   リンク先の資料9をダウンロードすればわかる。長い文章の後、「アメリカとは話し合いで解決したかったが、解決しそうに無いので交渉はやめます」という内容になっている。「宣戦布告」の一文はどこにもない。


  http://www.jacar.go.jp/nichibei/reference/index05.html
 
  宣戦布告「開戦の詔書(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)」は真珠湾攻撃の後に御前会議を催し、発せられた。

 さて、終戦後、東京裁判のキーナン主席判事から、来栖は呼ばれた。以下は来栖三郎著「日米外交秘話」からの引用。

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 11月26日に来栖がワシントンから日本にむけて発信したとされる電文のコピーをキーナン判事から渡された。しかし、「海軍大臣に相談して」なんて書いた記憶がまったくなかった。

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 日系アメリカ人が訳したものなのだろう。が、「至尊」なんて意味がわからなかった。

 どうも「ギャンブル」という単語が好きな翻訳者だったみたいで、やたらと日本は「賭け」していて、戦闘的なイメージを与える。

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 つまり「内大臣」(木戸幸一)という漢字の意味がわからず、海軍大臣の米内ということにしてしまったのだ。

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 あまりに誤訳がひどかったせいなのだろう。
 東京裁判ではこの真珠湾の奇襲について、罪状の一つとして審議はされた。結局、途中からうやむやになってしまった。
 米国は第二次世界大戦に勝ったものの、得たものはほとんどなく、日本も5年占領しただけだ。
 終わってみると、旧ソ連と共産圏だけが世界地図で領土をひろげ、その焦りが朝鮮戦争やベトナム戦争を引き起こす。再軍備を求めた米国の要望を吉田茂首相はきっぱりとはねのけ、軍事力を放棄した日本は経済大国に上り詰めて行った。(文責・梅田香子)